スイカフィッ・ランドの興亡

かのスイカフィッ・ランドにさえ、えいえんはなかったのだ。

10年代後半中央線沿いセカイ系・1

僕の通学路の最後の方にはサブカルでおなじみ中央線の高架下が続いており、飲み屋に並んで「無力無善寺」という店があった。ちょっとヤバいおっさんが店主をやっているらしいという噂を聞いてから軽くその店が気になってはいたものの、結局高校3年間入ることはなかった。大抵(いや、僕だけかもだけれど)通学路や最寄の駅周辺の店なんてものは、看板や店名ばかりなんとなく覚えて、実際に入ったりしない。

もっとも、それはさっき言った通り「中央線の高架下」、それも高円寺というちょっと特殊な街だったから、かもだけど。だけどやっぱり、僕は同じ中央線でも中野・高円寺というより秋葉原に馴染みがあるやつだったから、そこら辺のサブカルっぽい匂いのエリアにわざわざ入っていくほど惹かれなかったし、もしオタクvsサブカル戦争が起こったらオタクにつこうと考えていたし、「昔ならともかく、今のビレッジヴァンガードを駅近にのさばらせている高円寺はサブカルタウンの風上にも置けないのではないか?ふふふ」と笑ってみたりしていた。

だからといってそっち方面に一切の興味がなかったわけでもなく、大塚英志岡崎京子、東京グランギニョルといったいかにもサブカルっぽい固有名詞にも親しんではいた。ブロードウェイのまんだらけで『ちーちゃんはちょっと足りない。』を買って、中野→御茶ノ水へと向かう中央線の座席で泣いてしまったのが中野の一番の思い出だ。

あれ、違ったかな。朝、学校へ行く道を引き返して図書館に行こうとしたらまだ開いておらず、しかたなく時間になるまでマックで時間を潰したことかも……しかし、朝から図書館にいる人たちっていうのは……なんか似た雰囲気があったな。僕と同じ不登校児も結構いたのかもしれない……と、今不登校児といったけど、僕は当時、正確には「不登校児」ではなかった。登校はしてたから。

朝家を出る(この時点で既に「今日は行かずに帰りそうだな……」という予感はある。)、山手線に乗る、中央線に乗り換える、強い風が吹く度に駅の柱に隠れたりして、少しずつ遅刻が迫ってくる。高円寺の改札を降りると、走って学校の方まで行くやつが僕を追い抜いていく。このまま歩いて学校についたら遅刻者反省文だ。遅刻をするやつと、公共の道を全力疾走するやつのどちらに反省文を書かせるべきだろう。無力無善寺はまだ閉まっている。

「目印」が後ろから走ってくる。「目印」は同じ学年の、たしか結構有名な人。背が高くて足が長い。「目印」はゆっくり歩いているときと猛スピードの時があって、後者だったら僕の遅刻は確定だ。「目印」ほどの俊足が全力を出さなきゃ間に合わない時間なのだから。向こうは僕を知ってるんだろうか。たまに道の真ん中をぼーっと歩いている僕を邪魔そうに追い抜いていくし「置き石」とでも呼んでたりするのかもしれない。いや、まぁ、たぶん何とも呼ばれてないけど……。Uターンして高円寺の駅に戻る。自分と同じような表情の生徒を見て、そんな顔なら帰ればいいのに、と思う。

今はもうないけれど、そのころ高円寺の高架下には古書店があった。やけに店の表に置いた本棚が充実していて、中に入らなくて良い分気楽にその棚を眺めたり、ときどき立ち読みしてみたりと、僕はかなり好きな場所だった。その高架下で唯一、といっても良いかもしれない。多分夏休み直前、6月ごろ(だから、教室まで行けなくなってからすぐの話だ)にその棚で、一冊ずいぶん黄ばんだ単行本を見つけた。その感じからして10年は昔の本なんだろうと発行年を見ると、2008年とある。後々調べると、元は白い表紙だったらしいが、今の僕にとっては違和感しか持てない。

その本が、僕に「セカイ系」というものにのめりこませていく原因になった、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』だった。学校帰りに買った300円の「黄色いゼロ想」が、僕がただの不登校児ではなく、10年遅れの「90年代・ゼロ年代後追い世代」の不登校児になっていく様々な過程の、全ての出発点だ。

ゼロ想を読むに、執筆当時の宇野さんとしてはむしろそんな奴の誕生はいただけない、いい加減にしてくれと言いそうな感じな気が、かなりするのだけれども。